ハンニバルは妹ミーシャの死により心に深い傷を負ってしまい、それ以来言葉を発しなくなってしまっていた。
リトアニアのレクター城(当時、人民生活協同組合孤児院菜園となっていた)での孤児院生活は、ハンニバルにとっては苦痛でしかなかったようである。
言葉を発せられないがためにいじめにあい、孤児院の管理者からも差別的に扱われる事が多かった。また城の中の品々は略奪され、かつての家庭的雰囲気は全く失われていた。
そんな中、ようやく画家でもある叔父のロベール・レクターによりフランスへ引き取られ、新生活が始まったのである。ハンニバル13歳の頃である。
ロベール・レクターより絵の手ほどきを受ける
叔父のロベール・レクターはナチスにより一時期排斥された退廃芸術の画家であり、言葉を発しないハンニバルに対して気分転換のために絵を描く事を教えた。
頭脳明晰なハンニバルにとってこれまで芸術に接する事はあっても、自ら絵を描く事はほとんどなかった。(妹ミーシャといたずらでレクター城にあった絵画の裏側に落書きをした事はある)
ロベールによる絵の教えは、心を閉ざしたハンニバルにとって良い情操教育になったばかりでなく、妹ミーシャ殺害の一味の顔を夢の中だけではなく、白日の下に明確にする事ができたのである。
また、画家から絵の手ほどきを受けた事でハンニバルは絵を描く才能を開花させたようである。
後にロベール・レクターが死亡した後、ハンニバルはパリに住みリセに通う事となったが、パリでの生活費を助けるために売れる絵を描けるほどであった。