ハンニバルは子供のころから並外れた知能を持っていた。
2歳で本を読み、6歳のころにはリトアニア語以外に英語、ドイツ語を自由に読めるようになっている。
ヤコフ先生は我が子の教育レベルを上げるために父親が招いた学者であるが、その教育方法は一風変わっていたようである。
講義だけではなく、かつての城主ハンニバル”峻厳”公がドイツのチュートン騎士団との戦いで用いた投擲アームを再現し、ハンニバルの誕生日に動かすこともしている。
幼いハンニバルの好奇心を満たす
ヤコフはハンニバルに対して英語、フランス語のほかに歴史、数学を教えている。
歴史については自身がユダヤ人であるために特にエルサレム関連については造詣が深く、レクター家全員が聴き入ったようである。
ヤコフとハンニバルは6歳から12歳まで一緒に過ごしているが、その間にハンニバルは閏年の計算の仕方からピタゴラスの定理、旧約聖書など広範囲に教わっているようである。
ハンニバルが教わったことはヤコフ自身により教えられた「記憶の宮殿」にしっかりとしまいこまれて、後の彼の人格形成に大いに関わっていると想像できる。
ヤコフ先生は戦争終了間じかの冬に、レクター家が潜んでいた狩猟ロッジに給水にやってきたソ連軍と、ドイツ軍の急降下爆撃との間の戦いに巻き込まれ死亡している。
このとき生き残ったのはハンニバルと妹ミーシャのみであり、ここからハンニバルにとって生涯忘れることのできない事件と遭遇することになる。