13歳から20歳頃までを過ごしたフランス
ハンニバルは1946年から約7年間をフランスで過ごしている。
叔父である画家のロベール・レクターがハンニバルをリトアニアから引き取ったのである。
ロベール・レクターの妻紫は日本人であり、彼女が帰国する18歳までをほぼ一緒に過ごしている。この事が後のハンニバルに大いに影響を与えた。
怪物と呼ばれた医学博士ハンニバル・レクターについて、生い立ち、嗜好、関係者などをトマス・ハリスの原作小説を基にまとめた資料室です
ハンニバル・レクター資料室 > ハンニバルの生い立ち > フランス時代
ハンニバルは1946年から約7年間をフランスで過ごしている。
叔父である画家のロベール・レクターがハンニバルをリトアニアから引き取ったのである。
ロベール・レクターの妻紫は日本人であり、彼女が帰国する18歳までをほぼ一緒に過ごしている。この事が後のハンニバルに大いに影響を与えた。
ハンニバルは妹ミーシャの死により心に深い傷を負ってしまい、それ以来言葉を発しなくなってしまっていた。
リトアニアのレクター城(当時、人民生活協同組合孤児院菜園となっていた)での孤児院生活は、ハンニバルにとっては苦痛でしかなかったようである。
言葉を発せられないがためにいじめにあい、孤児院の管理者からも差別的に扱われる事が多かった。また城の中の品々は略奪され、かつての家庭的雰囲気は全く失われていた。
そんな中、ようやく画家でもある叔父のロベール・レクターによりフランスへ引き取られ、新生活が始まったのである。ハンニバル13歳の頃である。
故郷のリトアニアのレクター城から離れフランスでの新生活を始めたハンニバルであったが、過去の忌まわしい記憶を忘れることはありえなかった。
それは家庭教師のヤコフ先生の教えにより記憶の宮殿を自身の頭の中に構築したことによるものであるが、忘れえぬ記憶方を習得したがために妹ミーシャに起きた悲劇は幾度となくハンニバルの中で繰り返され、ある意味そのことによりフランスで最初の殺人を犯してしまうのである。
ハンニバルはリセに通っていた13歳頃、解剖の授業でカエルの解剖図を書いている。
このカエルの解剖図はレオナルド ダ・ヴィンチの有名なウィトルウィウス的人体図風に描かれており、内臓器官は線影をつけて描かれていた。
<レオナルド ダ・ヴィンチ ウィトルウィウス的人体図>
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そのあまりに完成度の高いスケッチに目を留めた当時のビヤンヴィル先生が、医学校のデュマ教授に見せたことから医学の道へ進むきっかけとなったのである。
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18歳で医学校へ入学したハンニバルは医学生としてデュマ教授の下で解剖の実習をしていたが、偶然に解剖用の献体となる死刑囚に最後の尋問をするポピール警視が使う記憶を呼び戻す薬物の存在を知り、それにより故郷リトアニアで妹ミーシャ殺害の一味の手がかりをようやく得ることが出来た。
ハンニバルは一味のエンリカス・ドートリッヒ、ツィグマス・ミルコらを処刑し、ついに一味のリーダ、ヴラディス・グルータスと対決することになる。
ハンニバルにとってのフランスでの生活は、どのようなものであったのであろうか?
叔父のロベール・レクターから絵の手ほどきを受け、叔母の紫夫人からは日本の美意識を学んだ事は確かであろう。また、その特異な記憶法により、医学生としての成績も優秀であった。一見、忌まわしい戦争の記憶から立ち直れたかに見えた。
だが結局は、すべては妹ミーシャの復讐の為に費やされたのではないだろうか?